クリスマスイブにやっと復活しました。回転性めまいで倒れた話

 

10日ほど前のことです。ベッドから起き上がった瞬間、猛烈なめまいに襲われました。

くらくらっと何回か天井が回るような眩暈は経験したことありますが、こんなに激しくひゅんひゅんと世界が回るめまいは初めてでした。

一度横になると収まったので、もう一回起き上がってみるとその瞬間全く同じ猛回転が始まって、立ち上がることもできません。

 

夫に「Dizzyで起きられない」とテキスト(携帯メッセージ)横になってじっとしているとおさまるのですが、少しでも動くとすごい眩暈と吐き気がはじまります。

ベッドで休んでいたのですが水やゲータレードも吐くようになってしまい、脱水も心配だし病院へ行こうと夫。でもこの状態はとてもじゃないけど動きたくない、数時間待っても収まる気配がなかったので観念して病院へ行くことに。

起きるのもトイレにいくのも着替えるのも眩暈と吐き気の戦いで、どんどん、具合が悪くなっていきました。

週末だったのでERという病院の緊急治療室へ。車の中では目もあけられないほどの気分の悪さ。こんなにひどいの初めてでした。

ERは待たされるのを覚悟していたのですが(数時間待たされたことあり)ここはシステムが良い病院ですぐに病室へ。

 

目をつぶったまま、名前や誕生日など答えつつ症状を説明し、最初にすぐにECGという心電図の検査、それから点滴。ここに吐き気止めのゾフランという薬を別の注射器でいれてもらいました。あっという間になくなる吐き気。

この薬は抗ガン剤の治療中にずっとお世話になった吐き気止め。一瞬で吐き気が収まります。それから眩暈を止める薬をのみ、数分後やっと目を開けられるようになったので目の検査や指の検査などして診断が Vertigo (回転性のめまい)でした。

Vertigoとは

めまい(Dizziness) 回転性めまい(Vertigo)の違い MSDマニュアルより

めまいとは厳密な用語ではなく、以下に挙げるような関連する様々な感覚を表現するためによく使われます。

気が遠くなる(気絶しそうになる感覚)

ふらつき

バランスを失ったり不安定になる感覚

漠然とぼうっとする感覚または頭がくらくらする感覚
立ち上がったときにだけ起きるめまいについては、 立ちくらみを参照してください。
回転性めまいとは、次の感覚です。

動いているような感覚

回転性めまいでは、通常、自分自身か周囲のもの、またはその両方が回転している感覚が生じます。この感覚は、子どもの遊びで、その場でぐるぐる回ってから急に止まると周囲のものが回転しているように感じるというものがありますが、それとよく似ています。ときに、左右片側に引っ張られているように感じるだけのこともあります。回転性めまいとは診断名ではなく、ある感覚を説明したものです。
めまいや回転性めまいがある場合、吐き気や嘔吐があったり、バランスが取りにくい、または歩くのが難しいことがあります。

。。。。。。。。。。。

そして、この(回転性めまい)の原因になるものが

良性発作性頭位めまい症

メニエール病

前庭神経炎

内耳炎

前庭性片頭痛

とされていて、数日後に病院でフォローアップで検査をしてもらったところ、一番上の良性発作性頭位めまい症 ではないかと診断されました。

英語ではBenign paroxysmal positional vertigo で通常BPPVと訳されます。こんんなの発音できる人いるの?と思ってたら病院のナースさん(アメリカ人)「発音できないけど、あれかな?」って夫が「BPPV?」というと「それそれ!」」という会話を目をつぶったままERで聞いていました。笑

 

これほどの激しい眩暈と吐き気なのに命に別条がない病気で治療法もそのうちに治るといわれ(内耳の耳石の浮遊が原因で元の位置に戻ると治る)びっくりしました。

もうその具合の悪さは、この世の終わりのよう。私は乳がんで治療していますが、がんはかなり大きかったのに体調に変化はほとんどなかったのです。発覚するまですごく元気でした。こんなにひどい症状の病気ははじめてです。

数日はベッドから全く動けずスマホさえ触れず、回転を止める薬を1日3回飲んでずっとずっと眠っていました。(アンチヒスタミンが入っているのでずっと眠い)目が覚めて頭を動かすと気分が悪くなるので寝ているのが一番良かったです。

やっと動いて少しづつ何か食べられるようになったのが5日目くらい。回転は収まってましたけど、足がどうにもふらついて何もできませんでした。

食事を少しづつ増やして家事ができるようになってきたのが1週間後。そして今日は10日目くらいですが、足もしっかりして、ほぼ復活です!

グーグル先生にどのくらいで治るかきいたら3週間から6週間と書いてあってがっかりしましたけど、それより前に治りました。良かった~!

クリスマスディナーも作り、このブログも書ける。普通のことができる幸せ。素晴らしいことです。

いつものように3人でクリスマスのハムなどを食べて、なんて幸せなんだろうと再確認しました。

プレゼント本当に何もいらない、と思いました。私には家族と健康が一番です。

この病気は年齢が高いほど発症しやすいそうで(うん、だと思った)気をつけなければいけないですね。階段で、とか運転中にとか考えると本当に怖いです。

今回も猫先生が添い寝治療してくれました。笑 ありがたいです。

 

 

 

 

イチロー選手の引退会見の言葉で思ったこと。

 

イチロー選手の引退は日本では大きなニュースだったのではないでしょうか?私もSNS、おもにツイッターで流れてくるニュースを読み、会見の一部も見ることができました。

イチロー選手の引退会見で、心に残った言葉がありました。忘れないようにここに書き残しておこうと思います。

孤独感を感じながらプレーしていたのかという質問に、それはないと答えた後

 

イチロー選手の会見より ここから。。。。。。

それとは少し違うかもしれないですけど、アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。

このことは、外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分があらわれたんですよね。

この体験というのは、本を読んだり情報をとることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。

孤独を感じて、苦しんだこと多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって、大きな支えになるんだろうと、今は思います。

だから、辛いこと、しんどいことから、逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときに、それに立ち向かっていく。そのことは、すごく、人として重要なことなんではないかなと感じています。

。。。。。。。ここまで

 

胸に刺さりました。

アメリカに来て驚いたこと。それは自分が外国人になったことでした。

特に25年以上前の日本は(日本には日本人しか住んでいないのが当たり前)というような風潮でした。

結婚して基地の外に家を借りようとしたときに(外国人お断り)がほとんどで、これは自分が外国人、もしくは外国人の家族がいる人しか知らないことでした。

夫は日本が大好きですが、こういう時は落ち込むことも多かったです。

あちこちでこういう目に見えない(差別)にあい、文句も言いましたけど、私の一言では何も変えることはできませんでした。

私は憤りを感じながらも「日本ってこういう国なんだよね」とあきらめていたことも事実です。

そして渡米してアメリカ暮らしを始めて、今度は私が外国人になりました。

いきなりマイノリティーというカテゴリーになり心底驚いたのを覚えています。アイダホの田舎町での生活はつらいものがありました。

どこに行ってもジロジロ見られます。そう夫に言うと「それが日本での自分だったよ」と言われハッとしました。確かに当時はジロジロと見られて私は気にしていませんでしたけど夫の気持ちはどうだったのだろうと、やっと考えることができたのです。

アイダホのある街で「日本人?初めて見たよ!」と言われたこともあります。私は見られるのもすぐに慣れて、こちらからハーイと挨拶するようになりました。

そして初めて会う日本人が感じ悪くてはいかん!!とどこに行っても愛想振りまき(笑)ある意味日本を背負っていたと思います。

近所づきあいを積極的にしてアメリカ人の友達も増えて、そういう気持ちを吐露したこともあります。

友達が増えても群衆の中の孤独、深い孤独感に悩まされることも多かったです。

辛い数年を過ごしてまた日本の基地に異動になったとき、日本国を見る目がすごく変わりました。外国人というマイノリティーに対する思いも。どんな気持ちでいるのかも。

日本に帰ってすぐに、本当にすぐに中古車のお店で「Yナンバー(横田基地)には車売らない)と言われ、福生にあった有名レンタルビデオ屋では「外国人は家族でもカード作れない」と言われました。

その時にはもう「しょうがない」という気持ちは全くなく「こういうことを変えていきたい」と思いました。

ビデオ店はその支店だけの決定だったようで本社から丁重に謝罪され、改善されました。お店側でも多分たくさん嫌な目にあったのだと思います。他の基地のそばにあったビデオ屋では「返さないで本国に帰って困っている」と言われ、基地の電話番号とかけ方など教えました。

日本にいたころ、どちらの気持ちも分かったので、いろいろなことが改善されたらいいなと気がついたことは電話かけたり基地側にも話をしたりしていました。

しばらく架け橋を続けたいと思っていたのですが、そんなある日乳がんにかかり、またアメリカ(ハワイ)に行くことになったのです。

そこからの数年は闘病で自分のことで精一杯でした。家族に支えられここまでやってこられました。

夫と息子には感謝の言葉しかありません。

猫家族も増え、いつも仲良く楽しく暮らしています。

それでも、時々どうしようもない孤独感に襲われる時があります。

日本に帰りたいなあ。

そう思った時に

ああ、もう日本人じゃないんだなあ。帰れないんだなあ。

と思い泣きたい気持ちになります。

本当に家族と別れて日本で一人で暮らしたいわけじゃないんです。それでも、時々、そういう気持ちになったときには今度は(外国人)として日本で暮らさなくてはいけないんだなあと思いました。

3か月だけ。

切ないような悲しいような気持になるときがあります。

特に桜の季節に(桜が咲き始めた)と写真を見たりすると、どーんと沈みます。大好きなんですけどね、だからこそ辛かったんですね。

昨日はそんな日でした。深い孤独感に沈んでいた日。

そんな日にイチロー選手の会見の一部を見て「ハッ」としました。

この経験があるから、人の痛みも想像できるようになったんだなと。そして自分はそれを受け止めればいいんだなと。

そう思うとアイダホでのあの生活があってよかったなと思います。そして何もないあのド田舎生活があったからこそ、オハイオのこの生活もサイコーと思えます。ってどっちにも失礼ですね(笑)

いろいろな経験をして、辛いこともあるけどいつかは自分の糧になる。そう信じています。

 

 

 

 

 

 

私の英語勉強法 過去編2 アイダホでの試練

前回の続きです。

結婚して日本の基地内で生活をしていました。妊娠して、出産も基地内の病院でした。この頃の英語は意思の疎通ができる程度で混み入った話もできませんでしたし、文法的にも発音的にもひどかったと思います。

特に病院では困りました。妊娠でそういう教室に行っても何もわからない状態でした。ノーラコーリさんの「海外で安心して赤ちゃんを産む本」を何度読み助けられました。

アマゾンを見ると、まだ売られていましたがレビューが「内容が古い」なるほどと思いました。20年以上前の愛読書?でしたから。私にはとても良かったです。

この後の赤ちゃんを育てる編それから学校編も持っていて、重宝しました。

その時々の状況に応じて調べるのが一番勉強になると思います。

その時はかなり出産用語を勉強したと思っていたのですけど、わからなくて聞き直すと意地悪なナースに「こんな言葉わからなくても結婚して子供産むのねー」と早口で言われたこともあります(そんな悪口は早口でも聞き取れます。笑)

在日の基地内では日本人もたくさんいて、あまり英語に苦労しないんですね。日本人従業員が多いので、何を買うのも、どこに電話するのも日本語で大丈夫でした。(基地によって違うかもしれないです。それから20年前です)でもそこで甘えてるわけにはいかないと思い、きちんと習うことにしたのです。

子供を育てながら基地内の大学で講習があるESLに行くことにしました。

English as a second language 英語が第一国語ではない人のためのクラスです。

先生は日系人で日本語のほうが怪しい先生でした。ここで飛躍的に(自分比)伸びた気がします。

英会話中心ですが、ここでは読み書きも重要だと教わりました(私は読み書きがダメダメなのです。今でも苦手です笑)

ここでの決まりは調べ物をするときは英英辞典を使うこと。でした。最初はすごく苦労したのですが、これがすごく良かったです。わからない単語を英語で引く。英語の説明を読む。わからなければ、またその単語を調べる。かなり高くて重たい辞書を買った覚えがあります。今ならスマホでちゃっちゃと出てきて発音まで教えてくれますね。

英英辞典とそれから「とにかく何でもいいから書く、書いて書いて書く」と宿題も書くものが多くてつらかったのを覚えています。

今思い出すと私頑張ってた(笑)今全く向上心なくゴロゴロする毎日で、どうしたんでしょうか?反省です。

そうやってかなり会話も上達していき、その頃にアイダホに異動する話が来たのです。

カリフォルニアに数回行っていたので「アメリカだもん、どこでも同じでしょう?」となめてかかってアイダホでえらい目にあいました。

。。。。。。。。。。

初めてのアメリカ生活を控えて興奮よりも不安が大きかった日本を去った日。

基地のバス乗り場にたくさん友達が来てくれました。親友も遠くから来てくれてバスが出た後崩れ落ちて泣いたそうです。私もバスの中でも号泣。飛行機離陸で号泣。飛行機から見下ろした真下には隅田川の花火が見えて「祖国ニッポン!!」と言いまた号泣。

アイダホについてからは、すっかり覚悟が決まっていたと言いたいところですが、小さな空港、そして砂漠を見て唖然。タクシーに乗り「ここから1時間半くらい」と言われさらに唖然。なによりもなん十分走っても変わらない景色に驚愕しました。

途中うとうとして30分くらい眠って目を開けた時、全く同じ砂漠の地平線でした。

これは違う国の写真ですけど、こんな感じです。

 

小さな基地の生活が始まったとき息子は4歳になっていました。小さいコミュニティーの中人間関係が濃厚でアメリカ人の友達もたくさんできました。

アメリカ映画のような田舎町の付き合いです。外に安いチェアーを並べて井戸端会議(笑)近所の子供も毎日遊びに来て、すっかり英語にも自信がついていた頃、5歳になった息子が幼稚園に通うことになりました。

その頃の息子はあっというまに英語だけになってきていました。友達も英語、近所の人も全員英語。日本にいたらテレビも日本語。日本の家族や友達がしょっちゅう来て皆で日本語を話していたのですが、それもまったくなくなったので日本語を話すのはお母さん(私)だけ。

私が日本語で話しかけても英語で答えが返ってくる。そういう生活でした。

あっという間に英語になったとはいえ、生まれたころから日本語も教えてきたので言葉も遅かったですし、2か国語で混乱することもしばしばでした。

そんなある日幼稚園から連絡が来て「もう一年やり直した方がいい」と言われたのです。幼稚園で留年!!基地に数人いた日本人奥さんに聞くと「うちもそうだった」と言われてこれまたびっくり。

面接に行くと「英語を理解する能力に欠けているようだ」と言われました。夫が「家ではそんなこと全然ないですけどね」と言うと「わからない単語がかなりある」と言われました。例えばカーペットはわかるけど、ラグと言われるとわからない、とか。そんな程度で留年??とびっくり。

結局 Tutor (チューター)という家庭教師の先生をつけてもらって卒業できたのですが、書類に「英語力の欠如は母親がちゃんとした英語を話せないせいでした」と書かれていて、その時のショックと情けない気持ち、悔しい気持ちは数年たっても忘れられませんでした。

私のせい?私のせい?これこそが号泣というくらい泣いて、その後涙も枯れて日本に帰ろう。そう思いました。

近所のアメリカ人友達に話したら「なにそれ??そんなことないじゃん、私たちと毎日F(ファッ〇ンぐ)話してるよね?Fゴシップばっかだけど、ぎゃはは」とその人のFワード満載の英語もあれですけど(笑)

その先生は田舎の白人のおばあさんで人種差別がかなり強かったようでした。口には出さなかったですけど、態度が見え見えでしたね。

今だったら「うるせーよ」くらい言ったのになあ(笑)当時の私は心の底から傷ついたのです。しばらくトラウマで英語を話そうとすると「文法合ってるかな」と気になって話せなくなりました。

その後日本に帰ることになり、英語だけになってしまった息子になんとか日本語を教えようと大奮闘が始まるのですが、その話はまたいつか書こうと思っています。

英語勉強法じゃなくなってしまった(笑)