母と祖父母に聞いた戦争の事。長崎原爆の日に生まれて。

 

☆すみません、8月15日の終戦の日にUPしようとして、どんどん遅くなりますが、まとめを書いています☆

 

今日8月15日 日本の終戦記念日

 

母の話

昭和2年生まれだった母は、生前、戦争の話とこの日の事をよく話してくれました。

戦争がはじまり、せっかく入った女学校なのに、勉強できなかったこと。学徒動員で真夜中に工場で働かされたといいます。そして大好きな英語を「敵国語」だからと教えてもらえなかったと怒っていました。この時に

「バッカじゃないの?勝つつもりだったら、反対にもっと国民に勉強させな!」と思ったそう。

竹やりで突きの練習をさせられ、この時も

「バッカじゃないの?飛行機どうやって突くんね?」と思ったこと。

もちろん当時は口が裂けても言えません。

学徒動員の話もよくしてくれました。

眠くてうとうとしながらの工場での作業中、友人が指を4本切断してしまい、その指を持って走って病院に行ったけど間に合わなかったこと。

そして徹夜の作業が終わり、夜明けにおにぎり一つもらい、よろよろと家路に急いでいる時に空襲警報が鳴りだし「ああもう知らん!ころせ!」とやけくそで道に寝たこと。(このあたりの性格はかなり私は似ているように思いますw)

その時に祖母に「こんなところで、みっともない」と防空壕に引きずられていったこと。

ラジオの放送を聞き、戦争が終わったことを知り、嬉しくてたまらなかったと。大人たちは泣いていたけれど踊りたいほどうれしかったと。

戦争が終わり「やった!これから英語勉強できる!」とすぐに英語の学校に通い、すぐに基地での仕事が見つかったこと。

その後小倉基地から立川基地へ移り、父と出会い、私が生まれます。英語の基礎はかなり母から教わっています。

母や祖父母の話は悲惨なのに、おもしろく

「後から思えば、なんでも笑い話」と思える私の性格は完全にDNAなのかなと思います。

 

祖父祖母に聞いた戦争の話を書いておきます。ちなみに父とは幼いころからほとんど一緒に生活していませんでしたが、戦争中は田舎に住んでいたので、都会から疎開で子供たちが来るような場所。なので影響はほとんどなかったと言っていました。

 

以前していたブログに書いた話の転載です。

。。。。。。。。。。。。。。

 

祖父と祖母の話

私の祖父は、長崎原爆の被爆者でした。

1945年 8月9日。 11時2分。

そのとき祖父は長崎にいたのです。

長崎に出張で出張で仕事をしていました。デスクワークをしていた祖父、11時2分「たまたま鉛筆を落としてのお」机の下にもぐりこんだその瞬間だったそうです。

ものすごい光と爆音、次の瞬間には周りの何もかもが吹き飛び、焼けて、気絶していた祖父が気が付くと職場の人は誰もいなくなっていたと。「なんもなくなっとった。皆死んじょったのお」焼けた机の上を見ると、乗せていた自分の4本の指先は、溶けていたそうです。

小さいころから何度も聞いた話です。

祖父は遺体を集めて焼くなどの手伝いのために現地に数日残りました。

当時祖母は小倉にいました。数日帰らない夫。ニュースを知り諦め葬式の用意をしようと話をしていたときにやっと帰ってきたのです。 小さいころ私は

「おばあちゃん、うれしかったやろ?」と聞くと

「いいや!!見た瞬間幽霊かと思た。でも、なんでん幽霊が、こんな汚くて臭かかね!!おかしか!と思った」と言っては

「わっはっは」と笑ってました。(はい、祖母は面白い人でした、私DNAいただきました)

祖母はおしゃれでダンス好き。戦争がまだひどくなる前はダンス用の下駄を作り、ダンスホールに行き、憲兵が来たので「下駄抱いて逃げた」武勇伝があります。

祖母は何でもぼんぼん言う人だったのですが、それでも戦時中は口を開かなかった。 と言っていました。

”下手なことをいうと憲兵に連れて行かれる” 時代だったそうです。

 

原爆投下の第一目標は小倉でした。 小倉には祖母と高校生だった母が住んでいました。

歴史にもしはないといいますが、もし小倉だったら、私は存在してないかもしれません。

3回投下に失敗して目標を長崎に変えたそう(ウイキピディア)

祖父はその長崎で被爆し生き延びました。

 

。。。。。

 

別のエピソードですが、戦争が終わってからの話、、、。

終戦後の混乱期。 ある日アメリカ軍が来て被爆したのに生き延びた祖父を連れて行ったそうです。

その時また祖母は祖父は「今度こそ死んだ」と思ったそう。

当時は男は殺され女は強姦されると噂があったからだそうです。

でも祖父はまた生きて帰ってきたのです。しかも山のような食料品を持って。実は米軍は腕のいいシェフを探していて、料理人の祖父は小倉基地で仕事をもらったのです。

食糧不足だった当時の日本。ハムやチーズを持って帰り、近所の人に配り、泣いて喜ばれたと言っていました。

英語など全く話せなかった祖父ですが、少しづつ英語を覚え(メスホール)で米兵たちに食事を作りました。英語のニックネームで呼ばれ、とても好かれていたようです。

そのころ祖父が米軍の奥さんからお料理の本をプレゼントされて、ボロボロのカビだらけになったその本は、私の宝物です。

祖父の話を息子に何回もしています。息子はこの話が大好きで、本も大事にしてくれると言っています。

この戦争の話を友人や未来のパートナーに伝えて欲しいと思います。

祖父は被爆後も何年も元気でいましたが、20年ほど前癌で亡くなりました。 放射能と関係があるのかはわかりません。

男らしく、やさしい人でした。 祖母を最後まで面倒見てから亡くなりました。

祖父とは血のつながりはありません。 でも祖父も祖母も大好きでした。
時々ふと2人がそばにいてくれるような気がします。 特に祖父はよく夢に出てくるんです。

見守ってくれているようなうれしい気持ちになります。

長崎で被爆した直後にもその場所に居続けて現地の手伝いをやめなかった祖父。

「悪いのは戦争じゃ、アメリカと違うけんの」と言い続けてくれた祖父

私の誕生日は8月9日。長崎原爆の日です。なにか運命のようなものを感じます。

そして「アメリカは悪うないんぞ」と言われ育った私はアメリカの軍人と結婚して何十年も幸せに暮らしています。

戦争は反対です。ただ、悲惨な話だけではないことも、この家族にはあったことも書いておきたいと思いました。

終戦後に祖父が軍人に連れて行かれた話は我が家に大人気です。ハムとチーズを抱えて蹴ってきたところが特に。

母も夫と結婚する時とても喜んでくれました。呼び寄せで数年間アメリカでも暮らしました。

母や祖父母が敵国を憎み、そう育っていたら、きっと私の人生は大きく変わっていたと思うんです。

夫のママも、その両親も「敵国を憎む」という気持ちがなかった。夫ママは反対に日本が異常に好きで、私は本当にラッキーだったと思います。

そして今アメリカで暮らして辛いこともたくさんあるけれど、後から笑えたら、それでいいんだと思っています。その経験は必ずあとからいいことになって帰ってくると。

息子にも日本もアメリカも本当に良い国だと言ってきました。戦争という消せない歴史はあるけれど、もう2度と繰り返さず、平和な関係が続けば良いと心から願っています。

 

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