ヒューストンに行ってました。猫の傷跡の思い出

2週間ほどテキサス州のヒューストンに行っていました。気分転換にも良いかなと夫のコンベンションに家族でくっついていきました。

いやああ、毎日30度超えで暑かったあ!ヒューストン動物園に行きたかったのに、とんでもない暑さに負けて予定変更w エアコンのある施設へ。朝からもあ~っと暑くてホテルに閉じこもってました。

それでも東京のほうが暑いと聞いて本当にびっくりしてます。20年以上日本の夏を経験していないので想像できないです。

ヒューストンの旅行記やホテルの感想など、これから書いていこうと思います。

でも前回から1か月も経ってしまった。まだ続けられるのかな私。それに「アメリカで猫とのんびり」でなくなってしまったので、また一から出直そうかなと思ったりしてます。ブログまた引っ越し?タイトルだけチェンジ?う~ん。

精神的には落ち着いてきて、猫の動画も見られるように(見られなかった)そしてホテルでは悲しく思い出すこともなかったのですが、家に帰ってくると、「にゃ~ん」と出迎えてくれてたこと思い出して泣けてきます。

にゃんずは引っ搔いたことないと書いてましたが、正確にはアクシデントで数回あります。やさしいにゃんずでしたが、チャチャは外ではそれはそれは狂暴wヤマネコのようなのに、家に帰ると「おなかなでてええ~」w

チャチャは初めての日汚れてた足を洗おうとした時に驚いて私の胸に駆け上ってきてガリガリーっと。それ以来10年以上そばに来ると爪を引っ込めていました。夢中で遊んでいてもニンゲンのそばに来ると「す」っとひっこめるんです。

そんな優しい猫たちですが、薬を飲ませるときは嫌がって逃げようとして後ろ足が当たって爪痕が残りました。薬見ると嫌がって、それもつらかったなあ。

チャチャの爪が当たってひっかき傷になったところが、まだ残っています。

大好きな漫画「犬と猫どっちも飼ってると毎日楽しい」の松本ひで吉さんがねこさんに薬をあげたときにできた傷を「一生治らなければいいのに」と書かれていて、全く同じ気持ちだなあと思いました。

この足の傷、ずっと残ったらいいのになあと。

乳がんの手術の傷跡、出産のときの傷跡、卵巣手術の傷跡とほかにも傷だらけなのですが、今では全て、私の生きてきた歴史なんだなと思えます。

そして新たな爪の傷跡の思い出。消えてほしくない。でも消えたとしても思い出は消えることなく、ずっとずっと心の中の宝箱に入っています。

本当にうちに来てくれてありがとう。楽しい生活と幸せをありがとうと感謝の気持ちでいっぱいです。

これからはもっと前向きに人生をもっと楽しまなければ。

もっと旅行に行ったり、映画ももっと見なくちゃ。あああ映画ドラマブログも書かなければ。忘れてしまう~w

 

 

21年目のサバイバーになりました。Survivor

3月になりました。じゃない、もう半分すぎてた。笑

早いですね。あっというまに春になってました。

オハイオは4月まで雪が降るのに、今年はなんだか暖かい!!

うれしいですけど、今年はマイナス20度とか恐ろしい気温にならずに、アッという間にスプリング。

昨日も今日も窓を開けて(といっても昨日の夜は大雨と強風&雷で怖かったですが)お掃除日和です。

はあ、気持ちいいです。

 

3月。

息子の誕生日でした。

そして21年前2003年3月その日に治療のために日本の基地からハワイの基地へと移動しました。

私の乳がんが発覚したためです。このことはエッセイやNoteなどにまとめてあります。

エッセイ形式こちら カクヨム版 乳がんサバイバー

Noteのページ タミイ・M

 

たくさんの方の目に留まるように、あちこちに書いていますが、読みやすいのはこの2つだと思い、ブログにも貼ってあります。

 

ステージⅢCの乳がんでした。医者にも厳しいことを言われていました。1年以上の闘病、息子もまだ小さく泣いてばかりの日々。

息子の中学生の姿が見たい、高校生の姿が見たい、大人になるのを見守りたい。そうできないかもしれないということが、当時、一番怖かったです。

それから21年。

すっかり大人になった息子。

その姿を毎日見られる幸せをかみしめています。

神様に、家族に、親友に、医療関係の皆様に、そして支えてくださった全ての人に感謝しかありません。

何度も手術をしました。

抗がん剤と放射線治療をしました。

左胸は失ったままです。

子宮と卵巣の摘出もしました。

10年間のホルモン治療で太り、髪も薄くなりました。

それでも、こうやって生きていることが一番大事だと思っています。

 

このブログではほとんど乳がんのことを書いてきませんでした。

こんな私の体験が人の助けになるならと発信していた時期もありました。

それでもブログを通して友人のような気持ちになった人たちが病に倒れていくのを見て、本当につらくて。

そう思っていましたけれど、世界中のがん患者さんのほんの少しでも役に立てたり、希望を持ってもらえたらと思い、また少しづつ書いていこうかなと思っています。

「ステージⅢCだったのに21年も元気なんだって」と。

つらい思いをしている方達に伝わればいいなと思っています。

今日、告知された方や、闘病がつらい方。

希望を持ってください。

 

アメリカの寒い田舎で日本が恋しく、さらにコロナ過でついにうつ病になってしまいましたが、なんとか楽しく過ごそうと、努力しています。というよりも足掻いているところです。

人生がつらい方

生きているだけで、すごく偉いです。

私は自分にそう言い聞かせています。

えらいなあ、Tomotanは!ってw

 

どんな姿になっても(もう再建手術もしないです。元気でいられたら、それでいいなと)生きていることが大事だと思います。

 

希望を失わずに、毎日こう思って過ごすようにしています。

 

今日もいい日だった。

きっと明日もすごく良い日!

 

 

 

 

2015年と2016年の日本旅行記をまとめています。

 

以前のブログから2015年と2016年の日本旅行記を下書きに入れています。

あまりにも長いのでまとめる予定です。

20年前くらいは毎年のように日本に行きましたけど、それ以降は4~5年に1回だけ。と思っていたのに2015年と2016年と、なんで続けて行ったんだっけ?と調べました。

2015年にアメリカンエアラインのプロジェクターの蓋が息子の頭の上に落ちてきて、たんこぶができました。その後に確か一人分くらいのお見舞金というかマイルをもらいました。しかも1年以内に使うこと。という。ケチ~。

この2016年に「マイル切れちゃう」と無理に行ったのですが(もちろん毎年行きたいですけど予算的に無理なので)その後すぐに母が他界し、結局一人でトンボ返りして、日本行きの旅費を払う羽目になりました。

でもあの蓋というか扉が落ちなければ2016年に行っていないと思うので、なんだか不思議な気がします。

2016年の日本では「食べさせたいな」と思ってたマグロ食べに行ったり、母が見せたいと言ってた一人暮らしのアパートに行ったり、夫のために何か役に立ちたい(アメリカに呼び寄せそして帰国と迷惑をかけた、と)と口癖のように言ってた母が夫のスマホ探しに一役買って「ああ、役に立てたね」と笑っていたり。「じゃあまた来年来るね!」というと「う~ん」と困ったように笑ってたり。

なんだかいろいろわかっていたのかなと思ってしまいます。だから大事に思っていること、そして大好きだと言うことを伝えられて、本当に良かったなと思っています。

オハイオに帰ってすぐに連絡が来て、本当は時差ボケなどの疲労がひどくて行くのやめようと思ったのですが、妹を助けたくて、すぐまた飛行機を予約して私だけ行ってきました。

そして、その後は数年行けずに2019年に再び日本へ 10月でした。

これからは、できたら毎年行きたいねと話していたのですが、その後世界はコロナに。

まさかアメリカに帰って数か月でこんな世界になるとは!半年くらいかかるかなと思っていたら、そこから少し元に戻るまで3年もかかるとは!

世界中の皆さんが待ち望んでいましたよね。トラベル!やっと行ける!

というわけで2023年再び日本へ行きたいと思っています。

アメリカ生活、少々疲れています。ここ数年は特に鬱状態がひどくなっていました。日本で美味しいものを食べて、のんびりしたいです。

そして、このブログの2019年の日本旅行記を読んで、色々忘れていたので2015年と2016年の旅行記もまとめたいと思います。

映画ブログも、こちらのブログも、すっかり個人の健忘録になっとる。笑

読んでくださっている皆様、不定期更新にお付き合い下さり、本当にありがとうございます。感謝してます。

 

2015年お思い出より。ああ~~じゃぱ~~ん!!