海外から見たジャニーズ問題

 

アメリカに住んで20年以上になりますが、日本にいる頃からジャニーズはすでに大人気でした。私も「少年隊かっこいい~~」って騒いでいたこともありました笑

でも、今人気のスターもそんな性被害の中でのデビューだったのかなと思ったら、本当に辛くなりますね。

北公次さんの告発本も読んだことありましたけど、ほんの数人なのかと思っていました。

なんと数百人に上るのかもと。ひどい……

やっと、やっと大問題に発展しました、ジャニー喜多川の性加害問題。

この問題を文春でずっと特集していたときには毎週読んでいました。(1999年から)当時の勇気ある告発、緊迫する裁判の様子。文春はLA疑惑の頃もそうですがジャーナリズムとは?の答えのような硬派な週刊誌で大ファンでした。

「これは大騒ぎになるのでは」と思っていたら、なんとメディアはスルー。当時は本当に驚きました。

そして残念なことに、この後そのことを知らずに事務所に入所して性被害にあわれた方が多く、カウアン岡本さんもその一人。

「もし知っていたら、入っていないし親も行かせていないと思う」と発言した外国人記者クラブの記者会見も日本のメディアはスルー。

BBC イギリスのテレビから火が付き、被害者が声をあげだし、国連が動いてから、やっとやっと動き出しましたね。

 

9月7日のジャニーズ記者会見をYoutubeで少し見始めて「どうせテレビは、やってないよね」と思ったら、まさかのほぼ全放送局の生放送だったそう。

山は動いた。という表現がぴったり。被害を告発した勇気ある方々嬉しかったと思います。

でも内容は首をかしげるものばかり。全部は見ていないのですが、ニュースのまとめでは被害者救済についての具体案に全く触れられていない。とか性加害者の名前が付いたままの社名のままだとか。

いやいやいやいやおかしいって!って思います。記者会見場では「ヒトラー株式会社」とかありえないですよねって質問ありましたけど、アメリカの感覚だと例えば「エプスタイン会社」とか「ワインスタイン会社」とかのイメージですよね。

考えられません。

エプスタインはネットフレックスでドキュメンタリーもありますが、アメリカの実業家。カリブ海に島を持ち、そこでの未成年の少女たちに対する性的人身取引容疑で逮捕されました。Wikipedia ジェフリーエプスタイン

エプスタインから融資を受けていただけの人物も会社辞任に追い込まれています。何も知らなかったのにもかかわらずです。

米マサチューセッツ工科大学(MIT)Media Lab(メディアラボ)所長の伊藤穣一氏が辞任した。ITメディアニュース

 

それからハーヴェイワインスタイン Wikipedia

アメリカの有名プロデュ―サーで大変力があった人物ですが長年にわたる性暴力セクハラで大スキャンダルに発展Me too運動は記憶に新しいと思います。

どれほど権力やお金があっても、アメリカでは性犯罪には非常に厳しいです。

企業が広告から降りることが話題になってますが、当たり前だと思います。

性加害を認めた人物の名前のままの会社、被害者への救済措置よりも先に「タレントからお金いただきません」ずれてますね。

違うでしょ?って言いたくなっちゃった。

それよりテレビが怖い。タレントを使い続けますって。

海外だったら、絶対にありえないです。

確かに、タレントに罪はないし、かわいそうだと思います。だったら、どうして事務所を出て行かないのかなと不思議です。

何かいろいろ事情はあるにしても、一緒に沈まなくても良いと思うんです。

今回の件で一番「それはあかん」と思ったのがキムタクでした。

Show must go onって!!英語おかしい、Theは?←いやそこじゃない笑

ジャニー喜多川がジャニーズジュニアにいつも言っていたセリフだとか。ひどい!被害者が見たら倒れますよ。しかも敬礼付き! 削除はいいけど、その後だんまりって。

これは本当におかしいですよね。

英語と言えばもう一つ。なんでジャニーなの?ジョニーだよねといつも思ってます。 変なところ気になる。笑 BBCでもジョニーって言ってた。

アメリカではこの問題は大きなニュースにはなっていないのですが、時間の問題かなと思っています。

海外記者が見た「日本のジャニーズ報道の異常さ」の記事が面白かったので貼っておきますね。東洋経済

フランスジャポンエコーの編集長の記事でタイトルが

「日本のジャニーズ報道の異常さ」 「弱きを挫き、強きを助ける」歪みまくった構造

本当にそれ。この問題からメディアのそういうところが崩れて行ったらいいなと思っています。

 

母と祖父母に聞いた戦争の事。長崎原爆の日に生まれて。

 

☆すみません、8月15日の終戦の日にUPしようとして、どんどん遅くなりますが、まとめを書いています☆

 

今日8月15日 日本の終戦記念日

 

母の話

昭和2年生まれだった母は、生前、戦争の話とこの日の事をよく話してくれました。

戦争がはじまり、せっかく入った女学校なのに、勉強できなかったこと。学徒動員で真夜中に工場で働かされたといいます。そして大好きな英語を「敵国語」だからと教えてもらえなかったと怒っていました。この時に

「バッカじゃないの?勝つつもりだったら、反対にもっと国民に勉強させな!」と思ったそう。

竹やりで突きの練習をさせられ、この時も

「バッカじゃないの?飛行機どうやって突くんね?」と思ったこと。

もちろん当時は口が裂けても言えません。

学徒動員の話もよくしてくれました。

眠くてうとうとしながらの工場での作業中、友人が指を4本切断してしまい、その指を持って走って病院に行ったけど間に合わなかったこと。

そして徹夜の作業が終わり、夜明けにおにぎり一つもらい、よろよろと家路に急いでいる時に空襲警報が鳴りだし「ああもう知らん!ころせ!」とやけくそで道に寝たこと。(このあたりの性格はかなり私は似ているように思いますw)

その時に祖母に「こんなところで、みっともない」と防空壕に引きずられていったこと。

ラジオの放送を聞き、戦争が終わったことを知り、嬉しくてたまらなかったと。大人たちは泣いていたけれど踊りたいほどうれしかったと。

戦争が終わり「やった!これから英語勉強できる!」とすぐに英語の学校に通い、すぐに基地での仕事が見つかったこと。

その後小倉基地から立川基地へ移り、父と出会い、私が生まれます。英語の基礎はかなり母から教わっています。

母や祖父母の話は悲惨なのに、おもしろく

「後から思えば、なんでも笑い話」と思える私の性格は完全にDNAなのかなと思います。

 

祖父祖母に聞いた戦争の話を書いておきます。ちなみに父とは幼いころからほとんど一緒に生活していませんでしたが、戦争中は田舎に住んでいたので、都会から疎開で子供たちが来るような場所。なので影響はほとんどなかったと言っていました。

 

以前していたブログに書いた話の転載です。

。。。。。。。。。。。。。。

 

祖父と祖母の話

私の祖父は、長崎原爆の被爆者でした。

1945年 8月9日。 11時2分。

そのとき祖父は長崎にいたのです。

長崎に出張で出張で仕事をしていました。デスクワークをしていた祖父、11時2分「たまたま鉛筆を落としてのお」机の下にもぐりこんだその瞬間だったそうです。

ものすごい光と爆音、次の瞬間には周りの何もかもが吹き飛び、焼けて、気絶していた祖父が気が付くと職場の人は誰もいなくなっていたと。「なんもなくなっとった。皆死んじょったのお」焼けた机の上を見ると、乗せていた自分の4本の指先は、溶けていたそうです。

小さいころから何度も聞いた話です。

祖父は遺体を集めて焼くなどの手伝いのために現地に数日残りました。

当時祖母は小倉にいました。数日帰らない夫。ニュースを知り諦め葬式の用意をしようと話をしていたときにやっと帰ってきたのです。 小さいころ私は

「おばあちゃん、うれしかったやろ?」と聞くと

「いいや!!見た瞬間幽霊かと思た。でも、なんでん幽霊が、こんな汚くて臭かかね!!おかしか!と思った」と言っては

「わっはっは」と笑ってました。(はい、祖母は面白い人でした、私DNAいただきました)

祖母はおしゃれでダンス好き。戦争がまだひどくなる前はダンス用の下駄を作り、ダンスホールに行き、憲兵が来たので「下駄抱いて逃げた」武勇伝があります。

祖母は何でもぼんぼん言う人だったのですが、それでも戦時中は口を開かなかった。 と言っていました。

”下手なことをいうと憲兵に連れて行かれる” 時代だったそうです。

 

原爆投下の第一目標は小倉でした。 小倉には祖母と高校生だった母が住んでいました。

歴史にもしはないといいますが、もし小倉だったら、私は存在してないかもしれません。

3回投下に失敗して目標を長崎に変えたそう(ウイキピディア)

祖父はその長崎で被爆し生き延びました。

 

。。。。。

 

別のエピソードですが、戦争が終わってからの話、、、。

終戦後の混乱期。 ある日アメリカ軍が来て被爆したのに生き延びた祖父を連れて行ったそうです。

その時また祖母は祖父は「今度こそ死んだ」と思ったそう。

当時は男は殺され女は強姦されると噂があったからだそうです。

でも祖父はまた生きて帰ってきたのです。しかも山のような食料品を持って。実は米軍は腕のいいシェフを探していて、料理人の祖父は小倉基地で仕事をもらったのです。

食糧不足だった当時の日本。ハムやチーズを持って帰り、近所の人に配り、泣いて喜ばれたと言っていました。

英語など全く話せなかった祖父ですが、少しづつ英語を覚え(メスホール)で米兵たちに食事を作りました。英語のニックネームで呼ばれ、とても好かれていたようです。

そのころ祖父が米軍の奥さんからお料理の本をプレゼントされて、ボロボロのカビだらけになったその本は、私の宝物です。

祖父の話を息子に何回もしています。息子はこの話が大好きで、本も大事にしてくれると言っています。

この戦争の話を友人や未来のパートナーに伝えて欲しいと思います。

祖父は被爆後も何年も元気でいましたが、20年ほど前癌で亡くなりました。 放射能と関係があるのかはわかりません。

男らしく、やさしい人でした。 祖母を最後まで面倒見てから亡くなりました。

祖父とは血のつながりはありません。 でも祖父も祖母も大好きでした。
時々ふと2人がそばにいてくれるような気がします。 特に祖父はよく夢に出てくるんです。

見守ってくれているようなうれしい気持ちになります。

長崎で被爆した直後にもその場所に居続けて現地の手伝いをやめなかった祖父。

「悪いのは戦争じゃ、アメリカと違うけんの」と言い続けてくれた祖父

私の誕生日は8月9日。長崎原爆の日です。なにか運命のようなものを感じます。

そして「アメリカは悪うないんぞ」と言われ育った私はアメリカの軍人と結婚して何十年も幸せに暮らしています。

戦争は反対です。ただ、悲惨な話だけではないことも、この家族にはあったことも書いておきたいと思いました。

終戦後に祖父が軍人に連れて行かれた話は我が家に大人気です。ハムとチーズを抱えて蹴ってきたところが特に。

母も夫と結婚する時とても喜んでくれました。呼び寄せで数年間アメリカでも暮らしました。

母や祖父母が敵国を憎み、そう育っていたら、きっと私の人生は大きく変わっていたと思うんです。

夫のママも、その両親も「敵国を憎む」という気持ちがなかった。夫ママは反対に日本が異常に好きで、私は本当にラッキーだったと思います。

そして今アメリカで暮らして辛いこともたくさんあるけれど、後から笑えたら、それでいいんだと思っています。その経験は必ずあとからいいことになって帰ってくると。

息子にも日本もアメリカも本当に良い国だと言ってきました。戦争という消せない歴史はあるけれど、もう2度と繰り返さず、平和な関係が続けば良いと心から願っています。

 

ショッキングな日本のニュースから一週間経って。

 

もうこのままスルーして、ブログも「購入品の紹介~」という記事にしようと思っていたのですが、自分の心を落ち着かせるために考えなどを書いておこうと思います。

 

気持ちは落ち着いてきましたが、日本で銃での暗殺という事件。あまりにも衝撃的でかなり精神的にダメージを受けました。

アメリカでは銃撃は日常茶飯事で大統領の暗殺も過去にありました。

近年はシークレットサービス(日本のSP。SPは和製英語です)が優秀で1981年に起こったレーガン元大統領の暗殺未遂では瞬間が放映されましたが、DC警察のトマス・デラハンティとシークレットサービスのティモシー・マッカーシーのとっさの動きが素早く称賛されました。Wikiレーガン大統領暗殺未遂事件

今回の日本の狙撃。

命を救えたのにという絶望感がとても大きいです。

夫も全く同じだったそうです。

夫はアメリカ人ですが10年近く日本に住んでいて、気持ちは日本に寄り添っています。

さらに元軍人で攻撃に対しての守備の訓練や知識もあり、悔しい思いが大きいのだと思います。

なるべくニュースは見ないようにしていましたが、ネットでテレビニュースに出ない鮮明な映像を見ました。テレビで見たカメラをさげてしまったものではなく、警察官とSPの一部始終をとらえたもの。

あの映像がネットに出てから奈良県警の声明が出たように思います。

3秒の間に、もしかしたら、いやきっと。そう思うと辛いですね。

 

アメリカでは毎日のように起こる銃の事件。

銃規制に大賛成でした。そして元軍人夫とはいつも大げんかになっていました。

銃があふれている世界で、さらに身を守るという意味では賛成ですが、簡単に買えるのが問題だと思っていました。

夫は「銃が人を殺すんじゃなくて、人が殺すんだ」と言うので
「でも買えなくすればいいじゃない、そうしたら手に入らないよ」と言うと
「本当に人を撃ちたいやつらは、どんなことをしても手に入れるよ」

その時は「え~」と思っていましたが

今回はその通りでした。

なければ、作ってでも……。

すごく考えてしまいました。

 

こんなことがなくなる世の中になってほしいと心から願っています。

 

次回からまた、いつものおバカブログに戻ります。