前回の続きです。
結婚して日本の基地内で生活をしていました。妊娠して、出産も基地内の病院でした。この頃の英語は意思の疎通ができる程度で混み入った話もできませんでしたし、文法的にも発音的にもひどかったと思います。
特に病院では困りました。妊娠でそういう教室に行っても何もわからない状態でした。ノーラコーリさんの「海外で安心して赤ちゃんを産む本」を何度読み助けられました。
アマゾンを見ると、まだ売られていましたがレビューが「内容が古い」なるほどと思いました。20年以上前の愛読書?でしたから。私にはとても良かったです。
この後の赤ちゃんを育てる編それから学校編も持っていて、重宝しました。
その時々の状況に応じて調べるのが一番勉強になると思います。
その時はかなり出産用語を勉強したと思っていたのですけど、わからなくて聞き直すと意地悪なナースに「こんな言葉わからなくても結婚して子供産むのねー」と早口で言われたこともあります(そんな悪口は早口でも聞き取れます。笑)
在日の基地内では日本人もたくさんいて、あまり英語に苦労しないんですね。日本人従業員が多いので、何を買うのも、どこに電話するのも日本語で大丈夫でした。(基地によって違うかもしれないです。それから20年前です)でもそこで甘えてるわけにはいかないと思い、きちんと習うことにしたのです。
子供を育てながら基地内の大学で講習があるESLに行くことにしました。
English as a second language 英語が第一国語ではない人のためのクラスです。
先生は日系人で日本語のほうが怪しい先生でした。ここで飛躍的に(自分比)伸びた気がします。
英会話中心ですが、ここでは読み書きも重要だと教わりました(私は読み書きがダメダメなのです。今でも苦手です笑)
ここでの決まりは調べ物をするときは英英辞典を使うこと。でした。最初はすごく苦労したのですが、これがすごく良かったです。わからない単語を英語で引く。英語の説明を読む。わからなければ、またその単語を調べる。かなり高くて重たい辞書を買った覚えがあります。今ならスマホでちゃっちゃと出てきて発音まで教えてくれますね。
英英辞典とそれから「とにかく何でもいいから書く、書いて書いて書く」と宿題も書くものが多くてつらかったのを覚えています。
今思い出すと私頑張ってた(笑)今全く向上心なくゴロゴロする毎日で、どうしたんでしょうか?反省です。
そうやってかなり会話も上達していき、その頃にアイダホに異動する話が来たのです。
カリフォルニアに数回行っていたので「アメリカだもん、どこでも同じでしょう?」となめてかかってアイダホでえらい目にあいました。
。。。。。。。。。。
初めてのアメリカ生活を控えて興奮よりも不安が大きかった日本を去った日。
基地のバス乗り場にたくさん友達が来てくれました。親友も遠くから来てくれてバスが出た後崩れ落ちて泣いたそうです。私もバスの中でも号泣。飛行機離陸で号泣。飛行機から見下ろした真下には隅田川の花火が見えて「祖国ニッポン!!」と言いまた号泣。
アイダホについてからは、すっかり覚悟が決まっていたと言いたいところですが、小さな空港、そして砂漠を見て唖然。タクシーに乗り「ここから1時間半くらい」と言われさらに唖然。なによりもなん十分走っても変わらない景色に驚愕しました。
途中うとうとして30分くらい眠って目を開けた時、全く同じ砂漠の地平線でした。
これは違う国の写真ですけど、こんな感じです。
小さな基地の生活が始まったとき息子は4歳になっていました。小さいコミュニティーの中人間関係が濃厚でアメリカ人の友達もたくさんできました。
アメリカ映画のような田舎町の付き合いです。外に安いチェアーを並べて井戸端会議(笑)近所の子供も毎日遊びに来て、すっかり英語にも自信がついていた頃、5歳になった息子が幼稚園に通うことになりました。
その頃の息子はあっというまに英語だけになってきていました。友達も英語、近所の人も全員英語。日本にいたらテレビも日本語。日本の家族や友達がしょっちゅう来て皆で日本語を話していたのですが、それもまったくなくなったので日本語を話すのはお母さん(私)だけ。
私が日本語で話しかけても英語で答えが返ってくる。そういう生活でした。
あっという間に英語になったとはいえ、生まれたころから日本語も教えてきたので言葉も遅かったですし、2か国語で混乱することもしばしばでした。
そんなある日幼稚園から連絡が来て「もう一年やり直した方がいい」と言われたのです。幼稚園で留年!!基地に数人いた日本人奥さんに聞くと「うちもそうだった」と言われてこれまたびっくり。
面接に行くと「英語を理解する能力に欠けているようだ」と言われました。夫が「家ではそんなこと全然ないですけどね」と言うと「わからない単語がかなりある」と言われました。例えばカーペットはわかるけど、ラグと言われるとわからない、とか。そんな程度で留年??とびっくり。
結局 Tutor (チューター)という家庭教師の先生をつけてもらって卒業できたのですが、書類に「英語力の欠如は母親がちゃんとした英語を話せないせいでした」と書かれていて、その時のショックと情けない気持ち、悔しい気持ちは数年たっても忘れられませんでした。
私のせい?私のせい?これこそが号泣というくらい泣いて、その後涙も枯れて日本に帰ろう。そう思いました。
近所のアメリカ人友達に話したら「なにそれ??そんなことないじゃん、私たちと毎日F(ファッ〇ンぐ)話してるよね?Fゴシップばっかだけど、ぎゃはは」とその人のFワード満載の英語もあれですけど(笑)
その先生は田舎の白人のおばあさんで人種差別がかなり強かったようでした。口には出さなかったですけど、態度が見え見えでしたね。
今だったら「うるせーよ」くらい言ったのになあ(笑)当時の私は心の底から傷ついたのです。しばらくトラウマで英語を話そうとすると「文法合ってるかな」と気になって話せなくなりました。
その後日本に帰ることになり、英語だけになってしまった息子になんとか日本語を教えようと大奮闘が始まるのですが、その話はまたいつか書こうと思っています。
英語勉強法じゃなくなってしまった(笑)
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